
「御本陳藤屋」は、江戸時代初期の1648年に長野の地で産声をあげました。
加賀百万石で名高い前田藩主が参勤交代で江戸に向かう際には、善光寺宿における本陳(殿様が宿泊する格式の宿)を担いました。
以来300有余年に渡り継承してきた藤屋の歴史は、絶え間ない進化と時代性への適応があってこそ成り得たものです。
1892年(明治25年)“対旭館”と称する木造数寄屋造りの三層楼を建築した際には、当時としては斬新な欧風の要素を多く取り入れ、そ の大胆さと優美さで、通りを歩く人々をしばし立ち止まらせるほどでした。
また、その後の鉄道網の発達を見据えて長野駅前支店、吉田駅前支店を出店するなど、時代の変化を十分に先取りし、周辺地域の発展に寄与しました。
この頃、善光寺の参道には現在よりもずっと多くの人々が行き交い、大門町にも多くの宿が軒を連ねていました。
商店や宿の前では、客引きは当たり前に行われていましたが、藤屋は各宿がこれをやめる取り決めをし、街並みの快適さと格式を保ったとされています。
伊藤博文、福沢諭吉をはじめ、文人、政治家、皇族など各界の著名人が、しばしば藤屋を常宿として羽根を伸ばされたのも、このような大切に 継承してきたものが根付いていたからだと思っています。
1925年、大正期になって、藤屋はまた一つ大きな決断をしました。
それまでの建物から、現在も表参道のランドマークとして愛されている、アールデコ調の大正ロマンティシズムが薫る和魂洋才の館に生まれ変 わったのです。
この前衛的ともいえる大工事は、当時、国宝・善光寺仁王門の再生建築にも指名され越前宮大工・師田庄左衛門の手によって行われました。
師田が名匠であったことは言うまでもありませんが、記録によると、仁王門の再生に採算度外視で魂を注ぐ当時の師田の活動を経済的に支えた という歴史的一面もあったようです。
この時代の最先端の技術を集めて建てた洋館と館内奥の数寄屋造りとのトータルデザインは他に類をみない空間を生み、モダンな感覚を現代ま で確実に息づかせています。
そして、記憶にも新しい長野オリンピック。
NAGANOの名は多くの感動と共に世界に知られることとなりましたが、一方で開催後の地域観光には必ずしも良いとは言えない影響を与えました。
長野新幹線の開通や高速道路の整備開通などによって、それまで宿泊を前提としていた旅行客の一部は、日帰りするようになりました。また、オリンピック特需を見込んで雨後の竹の子のように建てられたホテルが、やがて過剰供給や過度なディスカウントを招く結果となったのです。
時代が変わり、マーケットが変り、訪れる人々の求めるものが変わりました。
一方で、歴史と物語が受け継がれてきたてきたこの場所が、訪れる人々をずっとおもてなししてきたこの場所が、決して変えてはいけないもの があるはず。この問題の答えは、藤屋の歴代の当主や先達が残した歴史を紐解くと、明らかでした。
いつの時代も進化を求め続ける姿勢こそが、藤屋が決して変えてはいけない歴史そのものだったのです。
2006年の春、藤屋はもう一度生まれ変わりました。
創業以来続けてきた宿泊業を休業とし、ブライダルを事業の柱に据えることで、藤屋は今日も微笑みや喜びの声が溢れる場になりました。
由緒ある建物は、リノベーションを通して新たなモダニズムが吹き込まれ、今日も表参道のランドマークとして愛されています。
これが、現在の THE FUJIYA GOHONJIN です。
その時代、その土地にしか存在しないからこそ、ストーリーがあり、人々の想いが息づいている。
THE FUJIYA GOHONJIN は、そんなかけがえのない場所です。
藤屋の大胆な決断の裏には、「不易流行」という創業以来の理念が脈々と流れています。創業以来、変化を求めてきた歴史があるからこそ、現在があり、未来があります。
いつの時代も進化を追い求め続ける姿勢こそ、変えてはいけない本質であると考えています。
「いつも新しく、心地よい何かを発見できる空間であり続けること」こそ、藤屋が重視している姿勢です。
いま、藤屋の「不易流行」の歴史を継承しているメンバーは、年齢もこれまでのバックグラウンドも様々です。このかけがえのないメンバーもまた、「不易流行」の精神でそれぞれ挑戦し、成長しています。
一人ひとりの進化が、藤屋の進化とリンクしているのです。
あなたにとって藤屋が、藤屋にとってあなたが、新しい進化を促す最良の機会となることを、心より願っています。
藤井 大史郎(ふじい だいしろう)
御本陳藤屋 17代目当主
株式会社 藤屋 代表取締役