ABOUT US藤屋について

善光寺門前 時をつなぐ迎賓の舞台

藤屋御本陳は、善光寺門前にて江戸から続く迎賓の伝統を今に伝えます。
かつては御本陳として大名や賓客を迎え
現在はウェディング、レストラン、宴のひとときを通じて、人生の大切な時間をしつらえています。
和と洋の美を重ねた建築、名士たちの足跡が息づく空間。
ここは、過去と今が静かに響き合う場所。
人が集い、語らい、心がほどけてゆく時間を、私たちは大切にしています。

不易流行

“決して変わらないもの、常に進化していくもの”

江戸の創業に始まり明治、大正、昭和を時が大きく移ろうとも、
加賀百万石大納言の御本陳として真髄を極めたおもてなしの心や、
名実ともに継承されてきた格式は不変のもの。

「御本陳」

“大名が参勤交代の際に宿泊した旅館を指す言葉”

江戸時代に産声をあげたこの「御本陳藤屋」は、
古くは加賀百万石・前田家藩主が定宿とし、近代に入ってからも、
有栖川宮、伊藤博文、福沢諭吉、渋沢栄一、高村光雲など、
目の肥えた各界の著名人、地元の名士を魅了するものでした。

藤屋御本陳が「ふぢや對旭館」の時代の資料

對旭館藤屋旅館

本店は大門町に欧風三層の建築、
日本風高樓と並び巍然として人目を驚かし、
正面兩側には松と柳の二大樹あり、
萬人足を止めて暫く凝視する所なり。

藤屋御本陳が「ふぢや對旭館」の時代の資料

對旭館藤屋支店

長野停車場に下れば、
右角に三層楼あり、
是を對旭館藤屋支店とす。

かつて長野駅前に藤屋御本陳が有した「藤屋ホテル支店」

御本陳 藤屋

大正14年(1925)、12代当主・藤井平五郎の構想と思いを受け継ぎ、
国宝・善光寺仁王門の再生建築に指名された、
越前宮大工・師田庄左衛門の手によって
大正ロマンティシズムが薫る和魂洋才の館に生まれ変わりました。

華麗な意匠が感嘆を誘うアールデコの様式美。
一歩館内に入れば、数奇屋造りと大正ロマンが融合したクラシカルな趣の空間が広がり、
四季を伝える日本庭園が、心に安寧をもたらす・・・。

西洋建築の美で人々の憧憬を集め、
白壁土蔵造りの街並みの中でひときわモダンなランドマークとして愛され続けた”御本陳”

藤屋御本陳 竣工の図(大正) 藤屋御本陳 竣工の図(大正)

そして、300有余年、変わらず受け継がれてきた最上級のおもてなしの心・・・。
この場所の歴史や、進化の過程を知れば知るほど、
時代のセレブリティたちを魅了してきた理由があらわになっていきます。

2006年春、不易流行の美を伝える
“THE FUJIYA GOHONJIN”として
現代のモダニズムを纏い新たな歴史を刻み始めました。

藤屋御本陳 竣工の図(大正)

幸せなときを、もっと幸せに。

人生の中のさまざまなお祝いごと。あるいは、日常の中のささやかな楽しみ。
目まぐるしい日々にふと訪れる、かけがえのない「幸せなとき」。

私たちはそのひとときを、この上なく素敵なものにしたいと願います。
笑顔になってほしい誰かのために、藤屋を選んでくれる人がいるから。
この場所で描かれるすべての「幸せなとき」に、心からの祝福を。

藤屋を訪れた名士たち

時代を越えて、藤屋御本陳には多くの名士らが足を運ばれました。

彼らがこの地で遺した筆跡やことばは、単なる記録ではなく、訪れた瞬間の空気や想いを静かに伝え続ています。

ここでは、そんな名士たちの足跡と、それを包み込んできた藤屋との関わりをご紹介します。

有栖川宮 威仁親王 -

有栖川宮 威仁親王

©国立国会図書館デジタルコレクション 『幕末、明治、大正回顧八十年史』第9輯

明治35年(1902)有栖川宮威仁親王のご宿泊

明治35年5月21日、皇太子殿下(後の大正天皇)が長野をご訪問、2泊されました。
皇太子殿下のご宿泊は善光寺大勧進。
有栖川宮威仁親王殿下ら随行者8名は藤屋に宿泊されました。

有栖川宮家は江戸初期創設の皇族で、威仁親王は第9代当主であり海軍大将。
後継者不在のため、後に大正天皇第三皇子が家督を継ぎ高松宮家となりました。

伊藤 博文 -

伊藤 博文

©国立国会図書館デジタルコレクション『伊藤公全集』第2巻

伊藤 博文の宿泊と「光風動春」

明治32年(1899)、初代内閣総理大臣・伊藤 博文が長野を訪れ、藤屋に宿泊されました。
その折に遺されたのが、「光風動春(こうふうはるをうごかす)」の書。
寛容さと向上心が新たな時代を動かす—
そんな思いが込められた書は、今も藤屋の個室「AOGIRI」にてご覧いただけます。

福沢 諭吉 -

福沢 諭吉

©国立国会図書館デジタルコレクション『福沢先生遺墨集 : 伝記完成記念』

福沢諭吉と「忙中有閑」

明治29年(1896年)11月6日、明治の啓蒙思想家・福沢 諭吉は
善光寺を参詣し、藤屋に宿泊しました。

当時の藤屋10代当主・藤井 平五郎(治昌)の弟・栄四郎が
慶應義塾で学び諭吉の門下生であったという縁によるもので、
その来訪を聞きつけた人々が藤屋に詰めかけ、講演を願い出たといいます。

諭吉がこのとき藤屋に遺したのが、「忙中有閑(ぼうちゅうゆうかん)」の書。
多忙な日々の中にも心のゆとりを持つことの大切さを説いたものです。
今もなお、この書は藤屋の個室「HONJIN」に大切に飾られ、
訪れる人々に静かな気づきを与え続けています。

渋沢 栄一 -

渋沢 栄一

藤屋に刻んだ一筆

「近代日本経済の父」と称される実業家・渋沢 栄一。

明治期にたびたび長野を訪れ、藤屋(当時は「對旭館」)に宿泊されました。
初めての訪問は明治34年(1901)4月。
以降も、善光寺参拝や講演のため明治38年(1905)、明治43年(1910)と藤屋に滞在しています。

明治43年8月の来訪時には、城山館での演説を前に、藤屋の芳名録に漢詩を一筆。

児童相見不相識 笑問 客從何處來
(じどうあいみてあいしらず わらいてとう おきゃくはいずこよりきたるや)

これは、中国・唐代の詩人、賀知章(がちしょう/659~744)の詩の一節。
子どもが見知らぬ来客を見て、にこやかに「お客さん、どこから来たの?」と尋ねた──。
渋沢がこの詩を選んだ背景には、当時の藤屋を営んでいた藤井家の子どもとの、
そんな心温まるやり取りがあったのかもしれません。

名士の筆が静かに語るその気配は、今も藤屋に息づいています。

高村 光雲 -

高村 光雲

©国立国会図書館デジタルコレクション 『光雲懐古談』

「心中無一事」— 藤屋に刻まれた静かな達成の言葉

上野公園の西郷 隆盛像の作者としても知られる彫刻家・高村 光雲は
大正8年(1919)善光寺仁王門の仁王像を手がけました。

5月9日、長野に到着した像の組み立てのため、光雲は藤屋に滞在。
6日間の作業を経て、15日に完成します。

その夜、芳名帳に記した一筆。
大正八年五月十五日 心中無一事 仁王尊奉安日
(しんちゅう いちじ なし におうそん ほうあんのひ)
偉業を終え記した静かな達成のことば。
今もなお、巨匠の静かな誇りを語りかけてきます。

2代目・師田 庄左衛門 -

2代目・師田 庄左衛門

©師田啓三氏(福井県越前市)所蔵

藤屋御本陳に息づく宮大工の誇り

現在の藤屋御本陳を手がけた福井武生の宮大工。

永平寺や善光寺仁王門も手がけた名工で、
「師田組」棟梁として全国で多くの寺社建築や近代建築に携わりました。

その高い技術と美意識に信頼を寄せた藤屋12代当主・藤井 平五郎は、
中央通り拡幅を機に藤屋の全面建て替えを依頼。

庄左衛門はこれに応え、伝統と近代性を融合させた建築に挑みます。
藤屋の改築は大正12〜14年(1923〜1925)に行われ、費用は当時で約20万円。

仁王門の約3倍が費やされ、北陸の資材や地元大工の力を結集し、
和洋折衷の意匠が随所に息づく館が誕生しました。

江戸時代から受け継がれる宮大工の技と、時代の先を読む感性が結実した藤屋御本陳。
その建築は今なお、名工の確かな手仕事を静かに伝えています。

藤井 平五郎 -

藤井 平五郎

©藤井家所蔵

「死する者は君なり、死せざるものは君の事業なり」

藤屋御本陳の12代当主。
本名を幸蔵といい、後に平五郎を襲名。

経済や建築に明るく、体の弱かった先代を支えながら
長野駅前支店の経営を担うなど藤屋の発展に大きく貢献しました。

大正12年(1923)中央通りの拡幅工事を機に、藤屋の建て替えを決意。
先進的な感性をもって、新たな藤屋を「和魂洋才」薫る大正ロマンの館へと再構築。
その完成を見届けた大正14年(1925)志半ばにして病没(享年51)。

その生き様は「君性沈重、動かざること山のごとく、
いったん事に携わるとその疾きこと風のごとし、よく機を知る者というべし」と称されました。

「死する者は君なり、死せざるものは君の事業なり」
これは平五郎の死後、近しい人々が彼の功績を讃えて述べた言葉。

書画・篆刻・漢詩にも通じた文化人でもあり、
翠峯 居士、三山 樵夫、畊象、並梧楼主人など多くの雅号が伝わっています。